高崎・清水寺骨伝導巡礼 - 霊験巡礼

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高崎・清水寺骨伝導巡礼

   高崎市清水寺 参道

 高崎市の名称は慶長3年(1598)井伊直政の入城後、和田の地を高崎と改めたことに始まります。
 江戸時代には「お江戸見たけりゃ高崎田町」といわれるほどの町に発展しました。明治2年に高崎藩8万2,000石を奉還し、同33年に市制を施行するに至りました。

 古来より中山道・三国街道がはしる交通の要衝であったことから、この当時で既に、日本鉄道会社線(上野~前橋)、碓氷峠を経て直江津に達する官設鉄道の信越線、高崎から下仁田に至る上野鉄道会社(現在の上信電鉄)の軽便鉄道、三国街道沿いの馬車鉄道(高崎駅前~渋川)が走っていました。

 47都道府県の中で、当時7県には全く鉄道が開通していなかった時代です。
 ここまで鉄道網が備わっていたことは注目に値することです。現在では上越新幹線・長野新幹線の二路線の他、在来線ではJRが高崎線、信越線、両毛線、八高線、それに上信電鉄線が集まっています。

 さらに鉄道だけでなく、関越自動車道・上信越自動車道・北関東自動車道の開通により、自動車での移動にしても格段に利便性が増しています。国道も4本が集中し、全国有数の交通網が整備された都市だといえます。

 東京へも100㎞という位置ですから、新幹線ではわずか50分という距離です。

 江戸との結びつきは古く、交通の利便性や商業活動を通して、長野・新潟方面からの中継機能を果たしていました。
 まさに群馬県の表玄関であり、また北関東における産業経済の中心地であることから、関東八十八ヵ所・平成の大師の道のスタート地点にふさわしい場所だといえます。しかし、今回の巡礼地は清水寺です。

 高崎駅から中心部を越え、烏川を渡り、西へと進みます。住宅街の先からなだらかな丘陵地帯となります。ここは古くから観音山と呼ばれています。

 平安時代初期、この丘陵に征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷征討の兵士の健勝と武運長久を祈り、京都清水寺から勧請し、開基したと伝えられる清水寺があります。この本尊に千手観音を奉っていることから、観音山と呼ばれるようになりました。

  骨伝導と高崎清水寺

 斜面に沿って長い参道が続いています。途中で少し曲がっているため、終着点が見えず、永遠と参道を登り続ける苦行のような気分を味わいます。これがまた巡礼の醍醐味です。
 結局石段は517段程度は登ることになります。

 参道が終わると道路を横切り、正面が観音堂になります。大悲閣と呼び、堂内に狩野常信筆の大絵馬一対があり、和算の大家斉藤宣義奉納の算額や高崎出身の浮世絵師、一椿齋芳輝の献額16面が観音堂の廻廊を飾っています。小さいですがなかなかの境内です。
 紫陽花寺としても知られる清水寺ですが、実は眺望も圧巻です。

 桜門に登ると高崎市内が一望できます。
 霊験とはまた異なる清涼な気持ちが現れます。

 訪れる者も少なく、まさに巡礼を堪能できます。

 そこで骨伝導サングラスです。最近頂いたチラシを公開します。

  骨伝導サングラスのチラシ

 霊験巡礼と骨伝導の結びつきは強いのだと感じます。

 なぜ?

 そんな疑問には骨伝導専門ページを熟読すれば、答えが見えてきます。

 ⇒ 答えは骨伝導専門「骨で聴くドットコム」へ
 巡礼のお供に骨伝導サングラス、これはもう常識です。

 
 

 
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